この世は自己表現の舞台
- 自分軸と引き寄せ 仕事に関する引き寄せ
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- 2016年6月30日
自己表現の舞台
あなたは、岡潔(おかきよし)という人をご存知ですか?
日本を代表する大数学者で、世界の数学者が挑戦しても誰も解けなかった「多変数解析函数論についての三つの問題」をたった一人で解いたという天才中の天才です。
多変数解析函数論とは何か?
そんなこと聞かないでくださいよ。
私にわかるわけないでしょが(爆)?
ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹さんや朝永振一郎さんも岡さんの講義を受けていたらしく、「物理の授業よりもよほど刺激的」とおっしゃるほどぶっ飛んだ授業をされていたようです。
ちなみにこれが岡さんですが、実際飛んでます。ヽ(*'0'*)ツ
となりの犬も一緒にジャンプしてますが、岡さんの飼い犬じゃないそうです(爆)
やはり天才にありがちな相当の変人だったらしく、数々の奇行が伝説として残っています。
ただし、それらの奇行には全て岡さん独自の合理的な解釈があり、その解釈は世間の常識には囚われない本質を突いたモノです。
つまり彼はものごとの本質を捉える能力に長けており、随筆家としても多くの書籍を執筆し、多くの名言も残されています。
以下も彼の名言の一つです。
私は人には表現法がひとつあればよいと思っている。
「数学なんかをして人類にどういう利益があるのだ」と問う人に対しては、「スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうとスミレのあずかり知らないことだ」
と答えてきた。
私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きてきただけである。
そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。
「実益にならないけれども。。。」だとか、「科学とは本来そういうもの。。。」だとか、言い訳めいたことは一切言わず、ただ、本能の有りたい様に従い生きてきた、という感じの返答ですよね。
私はこの言葉にすごく共感を覚えます。
もちろん、理念や目的は大事ですし、あったに越したことないと思います。
実際、私の事業にも理念はあります。
でも、理念がなくちゃダメとか、目標は必ず必要などとは全く思っていません。
それよりは、本当の自分が求めている、「今、これをやりたい」、「今、これをもっと探究したい」という欲求に素直に従い取り組んでいく。
そうすれば、あとは「自然、宇宙の法則が良きに計らう」程度にお任せして良いのだと思うのです。
岡さんは「人には表現法がひとつあればいい」とおっしゃってますが、彼にとっての表現法は「数学」であり、その数学をもっと探究したいという本能的な欲求に従い生きてきただけ。
その数学が「どれほど利益になるか」とか、「どれほど人間の生活向上に役立つか」ということは彼があずかり知らない範囲で、そこは天にお任せしますという感じでしょうか。
そして、この生き方こそ、引き寄せの本質じゃないかと思うんです。
なぜなら、彼は本当の自分の本能的な欲求に従い、素直に「もっと数学を探究し、発見の喜びを味わいたい」と思いそれに取り組んでいれば、さらにその喜びを味わえる状況を引き寄せる。
いわば「探究と発見の喜び」の波動が四六時中出ているわけですから。
そして彼は、世間の目だとか、常識だとか、社会通念などは全く気にしない。
例え、世間一般から見て「変人」と言われようとも、つねに「探究と発見の喜び」を味わい続ける「本当の自分である」ことが重要。
実際、彼は、「バックボーンが通っていれば変人じゃない」と述べています。
つまり、世間一般からは「奇行」と捉えられることも、「探究と発見の喜びを味わうため」という合理的な理由に合致する行動であれば奇行とは言えないはずです。
それに「奇行」と捉えるのも数の対比による捉え方であって、「奇行」とされる行動を多くの人がやっていたら、それはもはや奇行ではないですよね。(^^ゞ
彼の洞察からすれば「奇行」という解釈自体がほとんど意味をなさないんだと思います。
岡さんは人生という舞台において、徹底的に本当の自分を貫いて、その自己表現に勤めた。
そして、そのことが彼の人生を充実と喜びに満ちたものにしたのだと思います。
岡さんは亡くなる前日に、「まだ、したいことはいっぱいあるから死にたくない。しかし、しよせんだめだろうなあ。あしたの朝には命はないなあ。計算ちごた」と数学者らしい言葉をもらし、亡くなる二時間前から意識がなくなりあの世に旅立ったそうです。
世間の常識や周りの目にとらわれることなく、本当の自分を表現することに自分の人生という舞台を使い切った。
こういう人生、私は憧れます。(*^.^*)
≪…犬と一緒にジャンプ…≫から、「数学が見つける近道」マーカス・デュ・ソートイ著 富永星訳 に≪…犬…≫が出てくる。
【 犬は微分積分学をするのか? ・・・ 動物の脳が、正式な数学言語の力を借りずにこれらの近道を見つけられるように進化してきたというのは、じつに驚くべきことだ。自然は、最適解を出せる者をひいきにする。・・・ 】 から、
数学の基になる自然数を大和言葉の[ ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と ]からの送りモノとして眺めると「数のヴィジョン」になるとか・・・
[言葉の量化]と[数の言葉の量化]の最適解を求めて・・・
≪…多変数函数論とは何か? 私にわかるわけないでしょうが(爆)?…≫は、同じですが、【 離散的有理数の組み合わせによる多変数関数 】からの[方程式]の創生が2分岐し、そこに[1]の姿があるとのコトの記事をみつける。
岡潔の著書の
【 生後16カ月の孫が手に何かを持とうとするとき、1つのものを持っている場合は、次のものを持たそうとすると、最初のものを手放してしまうことに気がついた。口の中に何かを入れているときも、次のものは最初のものをぷっと吐き出してからでないと、入らない。これは自然数の「1」の練習であると思った。
それまで私は順序数と自然数は似たようなものだろうとタカをくくっていたのだが、順序数がわかってから自然数に進めるのだという見当がついてきた。
もっと観察していると、自然数の「1」がわかるには実にさまざまな全身での確認をしている。体じゅうを動かして、やっと「1」が手に入るらしい。 】
この風景を、数学の基となる自然数を大和言葉の【 ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と 】からの送りモノとして眺めると、その情景は、
πと1なぞりアイにてお友達
〇△□の円環での振り舞いは、[コンコン物語]のようだ・・・